So-net無料ブログ作成

只管打坐 [気づき]

「只管打坐」

 ただ坐りなさいと言われても、意味が分からず坐るのは苦痛だけかもしれません。自身で確かめながら坐る方がいいのではないでしょうか。

 目的も達成も願望も結果も何もかも求めないでただ坐る。坐っている時は、何者かである必要もありません。日本人でもなく、男でも女でもなく、若くもなく老いてもいない、信じているものもなく、国籍も無関係、血液型も無関係、学歴も無関係、職業も無関係、収入も無関係、家柄も無関係、出身地も無関係、ありとあらゆる概念もアイデンティも持ち込む必要はない。

 坐禅では、「言葉」も「文字」も「概念」も何もかも不要です。判断する必要もありません。識別する必要もありません。
 思慮分別する以前の世界が「これ」です。「これ」の只中にあるので只管打座。「これ」と共にあるので仏そのもの。修行でありながら結果とともにある。

 身体が固定されているので、物理的に何かを掴むことができません。何も所有できない(無一物)。何も所有することにとらわれない(不可得)。動く必要がないので、自らという意志も持ち込む必要はない。何かを受け取ったり、どんな概念も受け入れることはない(無分別)。

 皮膚の色も関係ない、国境も関係ない、移民とかも無関係。責任もなく、義務もない、権利もない。親でも子供でもなく、達成することもなく、成就することもなく、探求する必要もなく、知る必要もなく、貪る必要もなく、怒る必要もなく、悲しむ必要もなく、嘆く必要もなく、怨む必要もなく、喜ぶ必要もなくあらゆる感情に振り回される必要はない。知識に惑わされない。一切から解放されています。

 只坐るのに人間関係もなく、宗教もなく、信じることもなく、固定観念もなく、比較する必要もなく、奪うこともなく、奪われるものもなく、疑うこともなく、奢ることもなく、プライドを持つ必要もなく、忌避することもなく、何かに帰属することもなく、何かを気にすることもなく、何も考える必要もありません。坐って、ただ吐ききって吸う。呼吸とともに呼吸が呼吸します。

 思慮分別する必要がないので、対立するものはありません。過去を振り返ることもなかれば未来に思いを馳せることもありません。今を憂えることもありません。今を憂えることがなければ今に安住します。今に安住すれば時間を思念する必要はありません。時間の概念を持ち込もこともない。時間が無ければ今だけが続く。今が続けば永遠となります。

 ここ(=坐っている場所)に憂えることはありません。ここを憂えることがなければここに安住します。ここに安住すれば場所を思念する必要はありません。場所の概念はここ(=坐っている場所)にありません。場所の概念がなければ何処でも良い。何処でもよければ無限の空間のどこに坐っても安住する。何処でも安住できれば無限の空間が果無く広がる。
 今ここは、永遠の時であり無限の空間であると解る。

 自己が何者かである必要もない。自己というものを一切持ち込む必要がない。自己が自己である必要もない。自己がいないので問題はない。
 自己がいなければ認識する自己もない。認識する自己がいなければ空っぽ。自己が空っぽなら一切があるがままで何も問題ない。

 自己もそのままで良く、一切がそのままで良ければ、自も他も無いのでなんの問題ない。自も他も無であれば、全くの区別差別がない。区別差別がなければ一つそのものである。自も他も無でありながら、一切とこの身体と心を働かせているのは何だ?
 思慮分別の起こる前にある刹那の働きは、思慮分別を起こさなければ縦横無尽に何時でもどこでも働いている「只今」。何時でも何処でも門は開いている。

 一切が一つそのものであり、永遠であり無限であった。一切の本質は一つである。ただ顕れが異なるだけである。一切が一つで永遠で無限でれば、一切悉有仏性である。
 
 顕れはそれぞれに働きがあるが、一つのものの異なる働きでしかない。手は手の動き、足は足の運び、口は口の動き。動きは綺麗サッパリなにもかも残さない。それでいていつでも動けます。
一切の同根は同じであるが、一切の顕れが異なり、一切の働きが異なっていてもそれぞれの役割に間違った働きはありません。

 あらゆる木々は地球という同じ地に根ざしているが、異なる木々が生い茂る、あらゆる木々は根を張り、幹は上に伸びる。

 すでに仏であったのに、思慮分別する癖によって仏の居場所から出ています。自分(=仏)を探すために自分(=自我)を持ち出して外に自分(=仏)を探し回っています。
 知るものは知られるものでした。意識は意識自身を対象とした瞬間に、もう一つの意識を持ち出すので分かれてしまいます。一つの意識にはなりません。一つの意識のが一つの意識であるには一つの意識のままであるしかありません。意識が意識を知ることはできません。知られる前なので「無」です。知るとは知る対象が無くてはなりません。「これ」は「無」であるので無限の働きが展開されています。

※坐るときだけでなく、掃除、草取り、食器洗い、歩いている時等々・・何人でもなく、男でも女でもなく等々 何者でもない「これ」です。


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。
引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。
nice!(1) 

nice! 1