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無明ー2 [無明]

「父母未生以前の自己如何」

 我々は生まれようとして生まれてきたわけではありません。死ぬ時期も未知のままに生かされています。思考や感情も縁によってただ勝手に生じては勝手に滅しているだけです。

 思考や感情や感覚も所有したことはありません。思考や感情や感覚を所有していないので捨てることなどできません。

 物心がついてから様々な観念を溜め込み、固定的な観念で自己の判断として生きています。思考を使って観念から解放されることはできません。思考は概念で構築された「言葉」を使います。概念は実体のないものです。概念で概念を消すことはできません。空気で空気を消そうとするようなものです。

 さて、父母という概念を使いこなせるようになった「わたし」はあらゆる事象を概念によって自動的に解決しようとします。これは自己保身・自己防衛のための人間の脳の単なる「習性」です。この習性であらゆる事象が自身に降りかかってくる問題であるとの前提で対処(=分別)します。

 しかし、言葉で思考する以前分別以前に存在は存在のままに、生き生きとしてただ縁によって刻々と展開されています。


 「山」と言葉に出る前に、すでに山の姿を捉えています。目は目を使ったということもなく、あるがままの情景と一体となっていて、認識する対象としての「山」として見えているのではありません。

 残念なことに自動的な瞬時の「脳」の働きによって、あるがままから条件反射のように「言葉」が湧き出てきます。「山」と脳内で呟いてしまいます。

 実物を見ていながら実体のない概念のみの生命感のない(=死んでいる)言葉の「山」として一瞬思考としてとらえるだけです。言葉となった「山」が自己にどのような関係にあるか頭の中で思い巡らせ、何もなければ次に認識したものにどんどん移っていくということです。概念で把握されたので「驚きや感激」は薄れてしまいます。  只只今今が展開されてはきっぱり消え去り何も残さずに流れているだけ。

 父母という概念の出来上がる前の赤子のような純粋な心。いつも驚きと神秘の中で未知と戯れている世界。存在とともに一体となっている本来の自己でありたい。「只今 ただいま」は本源に返ってきましたということなのだろうか?


<注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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