So-net無料ブログ作成

十牛図4−2 [十牛図]

第4図 得牛 ―頌(じゅ)― 精神をさらにつくして、自分の牛をつかまえた。 しかし、この牛は野性の心が強く、力はさかんで、すぐにその荒々しい心や力を取りのぞくのは難しい。 あるときは、ほんの少しの間、高原の上にいるような、目の前が開けた心境になったように思えても、 またいつの間にか、煙のような雲につつまれて、その深いところに入りこんでいくように、自分の(牛の)心はとめどがない。 --- 今、まさにこの文章を目で追って頭で読んでいる「あなた」はどうして今ここに存在しているのでしょうか?  精子が卵子に入り受精して、人間という得体の知れない物体から産み落とされてこの世に生まれてきました。眼はよく定まらず、耳はあるがままの音が聞こえてくるだけ。手に触れるものはとりあえず握る。足は短いので地に着かないので宙を蹴り上げる。ただの肉と骨と臓器からできている。「無位の真人・本来の自己・仏・神・道・大いなる存在・大生命・大宇宙・それ」が身体を通して現実を感知している。  赤子には大人が持っているような希望、期待、執着、苦、悲しみ、苦渋、嘆きなどの言葉はありません。言葉のないただの感覚だけがあります。言葉を知らず言葉を発生することはできません。感覚を表現するのですが、わけのわからない音を発するだけです。言葉を使えるようになったとしても、快感や痛みなどもただ異なる感覚の種類として感じているだけです。痛みは生命維持に支障をきたすので、本能によって避けなければならない事象としてとらえています。  我々が今ここにいて、今を認識できているのは過去からの繋がりがあるからに他ありません。宇宙開闢以来どこかで途切れていれば今ここに存在していません。過去から途切れることなく生き抜いてきた最強の遺伝子を携えているということです。  今現在、宇宙空間にある一切の物は、宇宙開闢から宇宙以外の他から出入りしている物はないはずです。もし物質が出入りしているならば、つながっているので宇宙以外の物質ではなくそのまま今の宇宙の物質であると言えます。宇宙の中にある物質は過去の宇宙の物質そのままです。どんなものに姿や形を変えたとしても宇宙の物質であることに変わりはありません。  我々が目にしている一切は宇宙開闢から存在している宇宙物質から作られている筈です。粉々に分解して目に見えなくなったとしても、そのまま宇宙物質として宇宙空間のどこかに存在しているはずです。  宇宙と定義されるものは「一つ」です。我々は宇宙という「一」から作られています。様々に分化して異なる形態をとっていても本質は宇宙の「一」のままです。最初から「一つ」のものが縷々転々と移り変わって現出したり見えない何かに変化して存在してあり続けています。    あらゆる物質も「いのち」もただ「一」そのものです。 例えば、船にあらゆる物質やいのちあるものが乗っていると想像してください。波に揺られているのは船だけではなく、船に積み込まれている一切も同じように揺られます。例外なく波に揺られるはずです。波という一つのエネルギーが船の中のもの一切に平等に働いています。  自然界においてエネルギーの行き渡らないるものなどありません。銀河団も銀河も太陽も惑星も衛星も、あらゆるものがエネルギーによって動き回っています。物理学では、このエネルギーを様々に表現できますが、エネルギーは一つといってもいいのではないでしょうか。単位や方向の違い程度です。  生きとし生けるものの意識も「一つ」であると考察してみてください。 例:音を認識できる生き物が一箇所に集められているとします。同じ方向に耳が向けられているとします。突然、背後に雷のような大音量の爆発が起こった時、一斉に驚き逃げ惑うことでしょう。  この同じ反応があらゆる生き物に共通の「一つの意識」があるという証拠です。ただ「一つの意識」があって、個々の生き物に宿っている「一つの意識」が使われ同時に反応したということです。意識の相違がないから同時に反応できたのです。  動物も我々も別々の意識があると主張するのは、音を聞いた後の反応が異なるからです。別々の方向に逃げたり、飛んだり跳ねたり転げ回ったり耳を塞いだり様々な行動をするので別々の意識があるという論法です。しかし、個々の行動は個々の経験や今いる場所によって結果として異なる行動になっているだけです。宿っている意識は紛れもなくたった「一つの意識」であり、個々の環境や置かれている立場や性別等々によって発現される個性となっているだけです。  あらゆるものは別々ではなく全く同じ「一つの意識」である。 牛(=自我)もそのまま「一つの意識」であるのですが、別の意識であるとの癖から抜け出せないだけです。  他人とは異なる自分特有の過去の記憶があります。別々の記憶は別々意識であると結論づけます。ただこれだけの違いです。過去は何処にも存在していません。今、今、今は誰でも同じです。過去と今とどちらが幻影なのか、当然過ぎるところに腑が落ちます。  熱いものに触れた時や尖っているものに触れた時の反応はいくつになっても変わらないものです。日常で頭を使わないでやっている行為。習わなくても教わらなくてもできていること。すでに備わっていることがあります。修行しなくてもいい「無位の真人・本来の自己・仏・神」が既に宿っています。我々は自身以外の天や書物(=仏典・聖書等)の中にあるとの観念から離れられません。信じられないものはいつまでたっても現実となることはなく、夢物語として大事にしておきたいのです。牛(=自我)の経験こそが現実であると思い続けて生きています。  自分の牛(=自我)は経験や生い立ちによって反応が異なってくるだけです。牛(=自我)は生きる(=自己保身・自己維持)という本能によって形成されていますからおいそれと人間脳の理性の管理下には成り下がることはありません。  今ここに存在しているのは、コツコツと身をもって経験してきたことの集大成です。自身が自身によって自身のために構築してきた固定観念やアイデンティティです。牛(=自我)のおかげで今の自分自身が確立されています。「わたし」は自身によって作られた幻想である。ということは簡単に受け入れられないのは当然です。牛(=自我)の特性では、消そうとすればするほど存在感を高めるだけです。相手にしないでただ静観してみてはどうでしょうか。 <注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

nice!(1) 

nice! 1