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十牛図3−1 [十牛図]

第3図.見牛(牛を見つける) ①牛の鳴き声が聞こえたので、その声を頼りにたどってみれば、ようやくのことでその姿を見つけることができた。それは、旅人が一方的に探し求めていただけでなく、牛のほうからも近寄ってきたからである。牛も自分を探していた。 ②自分の目も耳も、鼻も舌も、体も心も、その感覚のひとつひとつが、牛を見つける手がかりとなった。日常の行動もまた、その一挙手・一投足が、やはり牛を見つけるために必要だった。 ③だから、まるで海水に溶けこんでいる塩の味や、絵の具の中に含まれている「にかわ」のように、自分と牛も、同じように分けて考えることはできない。 ④まゆ毛をさっと上げて、目をはっきり開いて見つめれば、まさに牛と自分は別のものではないことに気づくだろう。 ---- ①牛の鳴き声が聞こえたので、その声を頼りにたどってみれば、ようやくのことでその姿を見つけることができた。それは、旅人が一方的に探し求めていただけでなく、牛のほうからも近寄ってきたからである。牛も自分を探していた。**  牛(=混乱の原因)による「葛藤による苦しみ」(=鳴き声)が聞こえて(=気づいて)なんとかして脱したいと思いは募ります。経典では、混乱・葛藤から脱し苦悩のなくなった祖師の言葉を目にしました。自身も寂静の世界で生きてみたいという気持ちが強まります。  この段階の人は、瞑想や坐禅も試したことでしょう。心の落ち着きも体験することができてきます。たまに頭がすっきるすることもあります。神秘的な体験もあるかもしれません。  心の落ち着きはいったい何処から来るのか?何処から来るのではなく、牛(=混乱の原因)が静まったのです。心の晴れやかさ(=思考の隙間)を見つけることができるようになってきます。  何かを得たり何かを掴んだりすることに抵抗を感じることも在ります。唯識で言う末那識(=自我意識)に張り巡らされている思考の隙間から阿頼耶識を通じて世界を一瞬垣間見ることができました。  一瞥と言われる見性が起こったと思われます。純粋な意識で見えた光景は”あるがまま”の姿がそこにあったことに気づきます。その状態は長くは続くことはなくその時だけで元の自分のままであることにがっかりします。  牛(=混乱の原因=苦しみ)が無かったら、いつまでも気づくことはありません。詳細な観察によって苦しみという感覚を知るチャンスとして受け取る心の余裕ができています。 ②自分の目も耳も、鼻も舌も、体も心も、その感覚のひとつひとつが、牛を見つける手がかりとなった。日常の行動もまた、その一挙手・一投足が、やはり牛を見つけるために必要だった。**    目耳鼻舌身の五感によって感受しただけで終わるならなんでもありません。しかし、無常であること理解することなしに欲望を乗せて感覚を楽しむと終わりのない欲望の連鎖に囚われてしまいます。  何時までも求め続ける姿は、純粋な幼児の目から見れば取り憑かれた行動のように見えます。  一心不乱(=三昧)に掃除・料理・犬小屋を作る・草をむしる・風呂掃除等々の日常の行動に没頭しているとき。思考することなく没頭しているときに牛の不在(=混乱や葛藤の不在)を体験します。  食べている時も何かを考えていたり、風呂に入りながら仕事のことをや同僚の気に入らないことを考えたりしています。これは牛をわざわざ招き入れて自らが苦悩を作っていることを知ることになります。  自己正当化するには必ず悪者を作らなくてはなりません。考えている対象の人は何も気にしていないのに、今目の前にいないのに勝手に怒っている感情に巻き込まれているということです。 ③だから、まるで海水に溶けこんでいる塩の味や、絵の具の中に含まれている「にかわ」のように、自分と牛も、同じように分けて考えることはできない。**   自身の頭蓋骨の中に収まっている一つの脳なのに二極性が存在しています。苦しみは外から来るのではなく、コツコツと自身の頭の中で勝手に(=自動的に)苦を育てているということです。  自分とは切り離された事が「苦」の原因だと思いこんでいた。 例えば「わたし」を悩ますのは自身から距離をおいた他人。他人は物理的には外に存在しています。実際は、他人は外にいるのではなく自身の脳の中で取り扱っているのです。牛(=混乱の原因)は自身と分けることのできない自身そのもの(=脳内にイメージとして存在させている)です。 ④まゆ毛をさっと上げて、目をはっきり開いて見つめれば、まさに牛と自分は別のものではないことに気づくだろう。**  朝、目覚めると見るでもなく当たり前のように直ぐに見えます。ただ映像が見えているだけにすぎません。「わたし」がいようがいまいが見えるものは見えるただそれだけのことです。  当たり前であり、特別なことは何もありません。  カフカの「変身」にあるように身体がゴキブリとなって目覚めたという小説があります。我々は、日々人間を見慣れているだけであって本来は得体の知れない物体に五感という機能がついているだけのことです。「赤肉団」として生まれ「臓器と骨と肉」となり朽ち果てる運命です。  一瞬、一瞬に様々な念(=一念三千)を点滅させて生きている。牛も自分も得体の知れない肉団の中にあるということに気づかなくてはなりません。  自己の感覚器官が働いて経験しているのではなく、あらゆるいのちを生かす「働き」によって自然に働いている。働きに従っている「五感」から受け取った情報を脳が勝手に分別(=自我意識)して分別した結果が言葉として捉えられます。感情を言葉にして捉えている「何か」がよくわからず仮に「わたし」と定義づけます。その定義づけされた「わたし」が思っているとしています。分別している「わたし」は最初から存在していません。  我(=「わたし」)は、言葉と記憶力によって時間の概念ができると作られる概念だと思われます。本来の自己は触れたり思考するものではなく、あらゆるいのちをいのちたらしめている働き。  牛(=混乱の原因)は自分で作ったものであり自分そのものであることに気づく。考えれば考えるほど牛は大きくなるのです。黒かった牛はただ見ることによって色が抜けて透明になっていくことでしょう。  我々は、幻想の「わたし」をいつまでも掴んで離せません。物事の判断した主体として自己確立してきました。簡単には手放せません。  寂滅は掴めませんが「わたし」は掴めるのです。「わたし」がないと見抜いて、「わたし」に囚われなければ、寂滅であったというだけのこと。 <注:勝手な個人的な見解の部分がありますので、鵜呑みにせずに仏道修行による智慧によって確証することをお願いいたします。 引用もしくは酷似表現の場合は、タイトル及びアドレスの明記をお願いいたします。

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